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ホーム水屋神報>168号(平成17年6月26日発行)
 

「正八幡宮」の社名額について

宮司

 先代の良任宮司の著「ふるさとの訛なつかし」(三重タイムズ社刊)一四二〜三頁にすでに書かれていますが、当社には源義経由来の額があります。
 源義経が、文治の頃、吉野の山を出て伊勢神宮へ参詣の途次、赤桶の相模峠にさしかかるやいなや突然黒雲が起こり、八幡の旗が雲の中より翻ったといいます。義経はこの吉兆に喜び、そこに八幡社(後の相模神社)を建立したと伝わっています。
 明治時代の末期にこの神社は赤桶の秋葉神社や作滝の滝野神社などと共に水屋神社に合祀されました。現在ではこの額はいくつかの理由のため、旧い水屋社の額と共に齋館神殿に移され、大切に保管されています。近くから一度ゆっくりご覧ください。


歓喜天に祈る(前号からの続き)

フランス国 光明院住職 医師 融快 〔訳者 融仙〕

仏とは他の人々のこと
 歓喜天は双身であるため、現実の人間性と超越という相補う二次元を均衡よく生きられるようにする。象の頭は宇宙につながり、仏界の知慧を得、人間の身体は和をもって世の中を生きられるように、協調、友情、愛情を生み出す。我々は自分の知恵で世の中を見る。あいにく、自分の能力に早く満足したがる傾向があるので、わずかの知恵でも充分だと思ってしまう。何もかも解っているつもりである。職人は文学を学んで、教養をつけようとは思わず、芸術家は科学や数学を学ぶ必要はないと考え、学校教師はすべてを言葉で言い表したがる。学者は物質は光であり、それを観察する側の感受性の度合いによって異なる結果を得ることを認めるが、観察のために実験室の器具を使うことで満足している。
 神秘者は二次元の現実を作るのは自分のエゴであることを知って、自我による制限から解放されることを目標にする。言い表せない程広い大きな知慧とつながっていることを知って、この知慧と一体となり、日々の生活に慈愛を示そうとする。
 世の中のすべての悪や不純な行為は、各人が個々別々に生き、自分は一人ぼっちだと信じていることから生じる。不公平で厳しい世の中では何人にも頼れない、財産や社会的地位などの物質的な保証をまず獲得しようとする。それも一理あるが、物欲ばかりのエゴイストになるのは大きな誤りである。体験のある人も多いと思うが、人のためにつくせばつくすだけ内的に成長して、人生が楽しくなる、幸せになるためには他の人々が必要であることに気づくであろう、他の人々に何かをもたらすことが出来るのは大きなチャンスであろう。各人が小さな知恵を持つ小さな細胞で、大きな身体の中に生きる。もしこの身体が存在しなかったら細胞はないし、各細胞が自分のことしか考えず、争っていたら身体は弱まり死んでしまう。逆に一緒になって全体のためにつくしたらさらに大きく成長するであろう。我々の真の人間性は肉体にのみあるのではない。宇宙の中にも与えられたふさわしい場がある。宇宙の大生命と結びついて人類の自然の義務をはたしながら個々の生活を全うすることが出来る。
 我々は他の人々なしでは生きられない。他とは自分にある他の一面であると言える。他人からの助言や批判は、自尊心を傷つけるかも知れないが、成長へのきっかけとなる。弱点を指摘されたことに感謝しよう。知らずにいては同じ誤りを繰り返す。
 他からの意地悪も自分を制する試練となる。大いに感謝すべきだ。
 自分を縛りつけている自我の制約を知れば謙虚になる。宇宙の大智である大日如来のもとで、さらに一層深い生き方を捜そう。大自然の声や他の小さな声に注意深く耳を傾ければ、ガンコな自尊心やエゴイズムから解放される。そうなれば大生命のメッセージを受けて全き調和の中に生きることが出来る。それは想像出来ない程面白い生き方である。
夫婦の生き方
 インドでは、人間同士が愛し合うのは無意識のうちに神の愛を捜しているからといわれている。人間の一人一人が太陽光線の一つで、この光、愛を全人類に広げると太陽の全体が見られる。歓喜天は仏の愛を人間界に現した神で、家庭内の和と相互理解をもたらすことで知られている。幸福な夫婦には、愛とか性的楽しみよりむしろ友愛がある。つまり心と身体の完全な相互理解があって、一緒にいると自然に心が大きく楽しくなる。義務として助け合うのではなく、いたわりと感謝をもってお互いが相手をよりよく生きられるように努める。
 共同生活に最も大切ないたわりの気持ちを常に持ち続けるには、恨を内に秘めず、相手のしてくれたことを忘れず、話し合いを理解し合うように努めることである。力づくで相手をおさえようとする暴君同士の集まりではない、相互に協調し均衡を上手に保つようにする。夫婦生活も成長するための精神修行とみなせば、二十年たっても何かしら学ぶことはある。お互いが相手の努力を認めて育て上げた愛情は健康にも成功や子供の幸せにもあらゆる面に影響を与える。
 家族で毎日祈ることを知る者は、災いを除き幸せを呼びよせる。祈りは悪の影響を退け、ケンカの後でも心を浄めて恨みを残さない。ましてや、相手が悪いむくいを受けるように秘かに願うことはない。祈る家庭の子供はエゴイストにもならないし、友人づき合いにも良し悪しの判断が出来る。さらに理想をもって自分だけでなく他の人々のために祈れば確実に幸福になれる。
生きることは愛することである
 何千万年も昔から、生命は大河のように流れている。断えて消え去った生物も多いが、より高度の生物が現れて進化し続けた。地上には牙や鋭い爪を持った猛獣もいたが、弱い人類が支配者となった。それは、考え協力し合うことを知っていたからである。
 我々は人間として生れるまでに多くの生物の身体を経て、時にはオス、時にはメスとなって生まれ変わって来た。容赦ない自然の掟は厳しく、身を守り家族を守らねばならなかった。自分の子供を守る本能的な愛が少しづつ発展した結果、人間となって生れることが出来たのである。他の人間達と一緒に暮らすことを覚え、心と精神が成長して、内的世界が大きくなった。まず、身近な家族を愛し、友、さらに国を愛する。生まれ変わる度に心が少しづつ広がる。
 信仰し祈る者はこの世で最も大切なものは愛であると知る。そしてこの世に存在する最大の力、生命の根源である愛をみつめる。
 仏教では創造者としての神は認めない。宇宙に始めはないとし、業の力と物質を構成して識を生み出す。善意ある思いがあると言う。すべてが移り変わり、人生は苦であるという、逃れることの出来ない真理の下に変遷している。にもかかわらず宇宙は本質的に善であると言える。なぜなら、生命を造るには極めて細密、高度に物質を構成せねばならない。とるにたらない、どんな小さな物でも造り出すために多くの努力と愛が必要であることは、誰もが知っている。生命を造り、保護し、辛抱強く子供を育てる、人の世話をする、社会事業を企画運営する等々、すべてに多くの努力を要する。
 学者アインシュタインは「知能を神様のように全能と思うべきではない。筋肉はあるが人間性がない。知能は仕えるもので、知能で支配することは出来ない」といった。現代は頭で得る知識に重きを置き過ぎている。心の道徳とか深い知恵を教えない。人間の感受性を無視して能率を上げることばかり追求する。誠に残念である。人生の生きがいを失い、混乱と苦しみの源をつくっているようなものだ。精神病やノイローゼが近年、急激に増えていることからもわかる。様々な報道や映画の影響が絶えず、悪をこらす名目で、乱暴過激な破壊行為をする英雄を讃えるが、世の中は軍人や革命によって築かれたのではない。戦争が必要なことは極めてまれで、実際には多くの無駄と悲惨な苦しみの源になる。
 子供の成長には良いお手本が必要である。本を読んで自分の考えや感情を言い表す言葉を覚えるかわりに、テレビの画面をぼんやりみているだけ、時間を無駄にする。そして、壊し殺すことがあたりまえの遊びや面白い冒険のように思う。架空の英雄を見て、激しく乱暴な行為をするのが強くみせると思いちがいをしている。青少年の不良化が極めて著しく増えているのはそのせいである。空想と現実の区別がつけられない。或いは既成の権威に反抗する、独立したがる、我々だって若い頃は同じだった。世の中を変えようとする青年の夢はいじらしい。しかし、世の中が想像するようなものではない。過去の人々が生きるために多くの努力を払ったように、責任をもつことを覚えさせよう。美徳、勇気、世につくすことが尊ばれるし、皆と一緒に生きるためにはまず、大きな慈悲が必要であることを知らせよう。
「一番大きくなりたい者は皆の召使いになれ」 キリスト
「母親が一人児を命にかけて守り育てるように、障りなき心はあらゆる生き物を大事にする。限りなく大きな愛でもって世界中を上から下から、囲り中から愛する」 メタスートラ(宇宙の愛)
 この地上で我々がなすべき最も大切なことは何であろうか。自分の幸せと皆の幸せのために、まず自分の内面の成長に努める。心の輝きは伝播して、他の人々の心に伝わり、やわらげ、浄め、目覚め、調和させる。善意ある人間は世の恵みである。囲りの人々の心を暖かくする。反対に乱暴は乱暴を生む。戦争を止めさせるのは抗議することでなく、各人の心の思いから、許すことを学ぼうではないか。愛は自分や人の徳を大きくする。知恵、喜び、規律、和を生み出す。これが生命である。にくしみやエゴイズムは自己にこもり、おろかにするから排他的になって他人を軽んじる。
 そこで恨みが生じ争いとなる。これが死に至る。
 愛は未知の者、対立する者まで大きく包みこむ、従って皆と一緒に暮らすことが可能である。人それぞれの相違も見解を豊かにする。反対にきつい言葉、偽善、悪意、悪口は家族でさえ分裂させる。
 差別なき慈悲心を大きくすることは仏になることである。心にすべての生物を包み込み、会うことのない未知の人々も、加害者も被害者も、知恵を得て成長することを心に願うことである。欠点も多い我々は自分を変える勇気を持とう。厭世的になったり人から嫌われないようにする唯一の道である。やさしく謙虚になろう。そのためには執着から解放されることである。解脱への道はいかなる宗教でもどの時代においても同じで、この幻惑の世に執着せず、他につくすことである。
 祈る者は神仏にすべてをまかせる。ありとあらゆる小さな生物の小さな知恵を総合し支配する善意ある大きな宇宙の知慧と一体となって生きようとする。
 歓喜天に祈るようになってから、いろいろな所で、いろいろな人々に役に立つ機会を得たことを私はうれしく思っている。


宮司、万博プラチナ茶室に招かれる

左:遠州流宗家 小堀宗実 家元
右:水屋神社宮司 久保憲一

 六月二十二日、愛知万博内ロータリー館のプラチナ茶室に水屋神社宮司として招待を受け、行って来ました。遠州流宗家、小堀宗実家元直々の正客なのでとても緊張しました。暑さも加わり、多くの観客の見守る中で疲れましたが、とても楽しい経験でした。


夏越の大祓
  六月三十日、午後一時 水屋神社境内にて夏越の大祓をいたします。境内の茅の輪くぐりをして、今年半年間の罪・穢れをお払いください。禊ぎは神社前の井戸の予定ですが、もし梅雨による増水が心配なければ櫛田川で行います。前もってお申し込みいただけば男女共、男性用下帯や女性用白衣の用意ができますので、ふるってご参加ください。
御礼と感謝
 赤桶のモニュメントのタガが過日の大風で破損し脱落しました。その修理に奈良・榛原町の田所和郎氏と度会の上山隆生氏が無料奉仕くださリ、立派に修復いたしました。


フランス水屋神社建立実行委員会便り
☆副会長にフランス在住の竹本忠雄氏が就任されました。
 筑波大学名誉教授、コレージュ・ド・フランス元客員教授、美術評論家、東京教育大学仏文科卒。三八年ソルボンヌ留学。滞仏十一年間に「ル・モンド」「フィガロ」誌等で活躍し、広くヨーロッパに日本文化を紹介。アンドレ・マルロー研究で仏政府より文芸騎士勲章、コレージュー・ド・フランス賞。平成八年二月、筑波大学を退官。同大学名誉教授に。著書に「マルロー 日本への証言」「明治 閃光への記憶」などがある。融快さんをよくご存知で、我々にとってとても心強い方です。本紙次号に融快さんに関わる氏の文章を掲載いたします。
☆多くの方々のご寄付の輪が北は北海道から南は沖縄まで広がり、着々進捗しています。
 いくつか現物奉納もあり。先日の中村宮司の狛犬以外にも、上山隆生氏から立派な「手水鉢」が奉納されました。なお皇學館大学助教授の富永健氏からは「御神鏡」が、名古屋のさかい工芸代表・酒井常昌氏からはご神体をご安置する「唐櫃」の奉納申し入れをいただいています。
 また、フランス光明院へと、翡翠の粉で描かれた大日如来額が名古屋の太鼓演奏者・林邦久氏から奉納されました。次々と・・・涙が出るほどありがたいことです。ご神慮を感ぜざるをえない日々です。
 フランスでも夙に有名なお坊さんご夫妻、融快・融仙さんからも先日、喜びの電話を頂戴しました。