一四五号の神報において『拾傳集』の事について触れましたが、なかなか難解なこの書物、その記述については色々と不可解なことが有りまして、詳細は目下調査中というのが現状です。
さて、『飯高町郷土史』で先代宮司である久保良任翁は、これの成立が「延宝二(一六七四)年」であるとされていましたが、検討の結果、どうやら少し下がって延宝八(一六八〇)年以降であることが解ってきました。まだまだ謎の多いこの記録、今回は「国分け伝説」の謎に氏子崇敬者の皆様とともに迫ってみたいと存じます。
さてその「国分け伝説」は諸説ありますが、『拾傳集』に記載されている内容は次のようなものです。
「伝えに言うところでは、昔、天照太神が白馬に乗って大和国と伊勢国の境を見ようとこの辺りまでおいでになりました。そこで『誰かこの境を知らないか』と仰ったところ、水屋の森(註・当社鎮守の森と考えられます)から翁(註・現当社主祭神「あめのこやねのみこと様」の事です)が出てきて『堺が瀬が国堺です』とお答えになりましたが、『それではおかしい』と天照太神が仰ったので、国分けを行うことになりました。太神は礫石を堺が瀬にお投げになり、それにより起こった逆巻きの波を白馬で上流へと追いかけられました。すると「日高見が嶽(高見山)(註・「イヒダカミノ嶽」とも読めるので「飯高を見降ろす」の意味でしょうか?)」で波が止まった為、『ここが新しい国境ですよ』と翁にお伝えになりました・・・」
ここまでは、大同小異ありますが諸説が伝える「国分け伝説」とほぼ同じ内容です。ところが『拾傳集』では以下にこうあるのです。
「その太神のお言葉を受けて翁は『草も木も日高見嶽から東は全て太神様のものです』と言われました。すると太神は『翁のお住みになるところは大和国がふさわしい』として、翁は元の水屋の森にお帰りになりました。・・・」
土地勘のある氏子の皆様はこの矛盾点にもうお気づきでしょう。「国分け」をしたところで結局、「国分け」する前と国境が変わらなかったわけです。何の為の国分けだったのか。全く不可解極まりないとはこの事であります。
理由は皆目見当がつきませんが、元々あった「国分け神話」を何れかの時代に、当時の人々に都合良いよう書き換えた可能性も考えられましょう。しかし私も飯高町の住人でないので土地勘もまだまだ、皆様のお知恵を拝借できればと存じます。
これからも定期的に「『拾傳集』の謎」をご紹介していきたいと思います。(細)
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