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ホーム水屋神報>148号(平成14年12月9日発行)

閼伽と水屋の由来

宮司 久保憲一

閼伽桶といふ里の名をききて

 いにしへに たがおこなひし なごりとて

  名にはおひけん あかをけの里

宣長

 赤桶橋のたもとにこの歌碑が建てられています。皆様もよくご存じだと思います。「昔、誰が執り行なったのであろうか、地名に残る閼伽桶村」という意味ですが、あの江戸時代の国学者・本居宣長翁が紀州公に進講のため、和歌山に向かわれる途次、この地において詠まれたものです。もちろん宣長翁は『閼伽』の意味をよく知っていたのです。
 文中二年(西暦一三七三年)の水屋神社棟札にも記されている通り、赤桶の旧名は「大和州(やまとのくに)興福寺(こうふくじ)東門院領(とうもんいんりょう)閼伽(あか)桶(おけ)の庄(しょう)」です。
  そして「閼伽(あか)」とは、梵語(ぼんご)の「Arghya」の音写しです。「香り高い水」「仏に奉る聖水」の意味です。また『水屋』とは、関西地方では水を扱う「台所」を指しています。
 すなわち、水屋神社は、事実上興福寺と一体であった春日大社の台所(水屋)として、貞観元年(西暦八五九年)より、"二振りの閼伽桶"に汲み、水送りしてきたのです。


この一年を振返って・・・。

 氏子崇敬者のいかがお過ごしのことと存じ申し上げます。時の過ぎるのは早いもので、もう師走となりました。皆様におかれましてはお忙しい日々のことと思います。
 この様な年末のお忙しい中、毎歳末に水屋神社神木の注連縄神事にご奉仕頂き誠に御礼申し上げます。今回は注連縄の由縁についてお話したいと思います。
 注連縄とは、「なわばり」を侵す、「なわばり」争いなどと云われるように一本の縄が境界を示し、占有のしるし、立入禁止の印しであるとされています。高天原の神々が、日本の国土をお創りになったばかりの神代の時代、天照大神が天の岩戸からお出になった後、岩戸に縄を張り再び中に入れぬようにした。スサノオノミコトの所業に困り果てた天照大神が、天の岩戸にお隠れになってしまった、有名な天の岩戸神話です。この縄は「尻久米縄」と云われたと古事記に記され、しめなわの始まりとされています。
 注連縄には清浄・神聖な場所を区画するため引き渡されています。これが神社などに掲げられています。神社では、境内にあって、その神社にだけ自生している木であるとか、神社にゆかりのある木、ひときわ目立つ巨木あるいは老木を「神木(しんぼく)」としてお祀りしています。 神木には注連縄を張ったり、棚をめぐらしている所もあります。 また、神木を御神体としている神社もあります。 古来より、神木は神さまの宿る所であるとか、神さまの降臨する所とされていました。
 水屋の大楠は正に、神様の宿る神木です。今年も注連縄を確りと捧げ祭り、氏子崇敬者の皆様のご加護をおいのり申し上げたいと思います。何卒、協力を賜りますようお願い申し上げます。(常)


『拾傳集』の謎に迫る 第一回
「国分け伝説」の謎

 一四五号の神報において『拾傳集』の事について触れましたが、なかなか難解なこの書物、その記述については色々と不可解なことが有りまして、詳細は目下調査中というのが現状です。
  さて、『飯高町郷土史』で先代宮司である久保良任翁は、これの成立が「延宝二(一六七四)年」であるとされていましたが、検討の結果、どうやら少し下がって延宝八(一六八〇)年以降であることが解ってきました。まだまだ謎の多いこの記録、今回は「国分け伝説」の謎に氏子崇敬者の皆様とともに迫ってみたいと存じます。
 さてその「国分け伝説」は諸説ありますが、『拾傳集』に記載されている内容は次のようなものです。

「伝えに言うところでは、昔、天照太神が白馬に乗って大和国と伊勢国の境を見ようとこの辺りまでおいでになりました。そこで『誰かこの境を知らないか』と仰ったところ、水屋の森(註・当社鎮守の森と考えられます)から翁(註・現当社主祭神「あめのこやねのみこと様」の事です)が出てきて『堺が瀬が国堺です』とお答えになりましたが、『それではおかしい』と天照太神が仰ったので、国分けを行うことになりました。太神は礫石を堺が瀬にお投げになり、それにより起こった逆巻きの波を白馬で上流へと追いかけられました。すると「日高見が嶽(高見山)(註・「イヒダカミノ嶽」とも読めるので「飯高を見降ろす」の意味でしょうか?)」で波が止まった為、『ここが新しい国境ですよ』と翁にお伝えになりました・・・」

 ここまでは、大同小異ありますが諸説が伝える「国分け伝説」とほぼ同じ内容です。ところが『拾傳集』では以下にこうあるのです。

「その太神のお言葉を受けて翁は『草も木も日高見嶽から東は全て太神様のものです』と言われました。すると太神は『翁のお住みになるところは大和国がふさわしい』として、翁は元の水屋の森にお帰りになりました。・・・」

 土地勘のある氏子の皆様はこの矛盾点にもうお気づきでしょう。「国分け」をしたところで結局、「国分け」する前と国境が変わらなかったわけです。何の為の国分けだったのか。全く不可解極まりないとはこの事であります。
 理由は皆目見当がつきませんが、元々あった「国分け神話」を何れかの時代に、当時の人々に都合良いよう書き換えた可能性も考えられましょう。しかし私も飯高町の住人でないので土地勘もまだまだ、皆様のお知恵を拝借できればと存じます。
 これからも定期的に「『拾傳集』の謎」をご紹介していきたいと思います。(細)


鎮守の森、この一年・・・

 この一年は当神社にとってまさに「激動の年」であったと言えましょう。
 春日大社へのお水送り神事復活・相次ぐ禊場の完成・著しい参拝者の増大・・・
 そしてまた、私たちが水屋神社でお世話になったのもおおよそ一年前でありました。今ではもうすっかり「赤桶・作滝の鎮守さま」へ足繁く通うことが生活の一部になってしまいました。
 その間にも常山和哲君の水屋神社権禰宜に補任され、当神社の神主は二人の神職と一人の見習い神職(細谷)となり、一年を終えることとなりそうです。
 この神報は通じて氏子崇敬者の皆様と鎮守様の「対話」を目指して、先代久保良任翁の仕事を引き継ぐ気概で始めた次第でありますが、私どもの無知が災いし、まだまだと言ったものでありますが、宮司の御指導と皆様の御理解の下、何とか毎月発行することが出来ました。氏子崇敬者の皆様には厚く御礼申し上げます。
 最後に新年を迎えるにあたり、皆様の御多幸を御祈念申し上げます。来年も何卒宜しくお願い申し上げます。