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ホーム水屋神報>149号(平成15年1月19日発行)
 

水屋神社の椋(むく)の木 −新年の御挨拶に代えて−

宮司 久保憲一

 神社の拝殿・正面向かって右、樹齢はあまり定かでない、なんとも愛嬌ある老木のムク(椋)の木が立っている。
 何時の時代に遭遇したものか、この木の背面は大きく焼き焦げ、のこぎりで削られた痕も残る。根本辺りはもはや向こうが透けて見えるほどの空洞になっている。にもかかわらず皮一枚でスックと立ち聳え、毎年春を忘れず境内一杯に葉を青々と広げてくれる。神社のむささびもとりわけこの木が好きなようである。
 参詣者達はこの傷つきながらも立ち続ける老木から、なんらかの感銘を得るのか、最近とみに人気を集めだした。誰が言ったのか、暮れあたりから注連縄(しめなわ)も張られている。
 ところで最近、奈良県十津川村の神職・玉置健一氏から二幅の大額が奉納された。はじめて当社に訪れた時から氏はこの木に魅せられたという。墨で描かれたこの椋の木には龍神姫や七福神といった多くの神々が宿っている。
 どうか改めてもう一度水屋神社の椋の木を眺めていただきたい。


「吉元将軍」について(第一回)その由来

 当社社務所の神殿に「吉元将軍」という軍服姿の御神像がお祀りされているのは氏子崇敬者の皆様も御存知のことと存じます。来る一月十四日は旧暦の十二月十二日で、吉元将軍慰霊祭を斎行する日でありますので、今回はこの吉元将軍という神様について考えてみたいと思います。
 昨今よく取り上げられる外交問題には、決まって台湾問題が含まれているといっても過言ではないと思いますが、今を去ること三百五十年ほど前に台湾を植民地にしていたオランダに対して大暴れした水軍に「謝府」率いる軍隊がありました。水軍といっても中国(当時は明帝国)の海軍兼陸戦隊のようなもので、この「謝府」も台湾中興の祖といわれる明国の鄭成功将軍の配下として活躍していたのです。
 もともとこの神様は台湾の「白馬将軍廟」に祭られていました。この廟には「白馬将軍(謝府)」とともに数柱の「吉元将軍」といわれる日本人がお祭りされており、当社の「吉元将軍」もその一柱でありましたこの「吉元将軍」は「謝府」の側近であった日本人といわれています。
 当時の海は国を隔てるものではなく、国を繋げるものとして多くの人々が大小無数の交易を行っていましたから、海を根拠にする水軍には色々な国の民族が集っていました。この「吉元将軍」もそんな日本を勇躍飛び出して海の世界に身を預けた人物だったのでしょう。
 そして西暦一六六一年、「謝府」率いる部隊二千人余は台湾でオランダ軍との戦いに敗れ全滅してしまいますが、この「吉元将軍」らを台湾の人々が絶えず崇め続けてきたことは、彼らの戦いが台湾でいかに高く評価されていたかの証明でありましょう。
 神道には「八百万の神々(無限の神々)」といわれるように、森羅万象どのようなものにも神が関わって宿り、それを包み込むように天照大神がすべてを日の光で照らしているといえましょうから、この「吉元将軍」も立派な神々様の一柱であります。その御縁は、日本に三百数十年ぶりに神様として御帰国なされ、さらにこの村の鎮守である水屋神社にお祀りされるという全く数奇なものであり、翻って考えれば、「島国根性」と揶揄される現代日本人の祖先が、いかに世界を股にかけて活躍していたかを窺い知ることが出来る、大変有難い神様といえるのではないでしょうか。
 次回は、この「吉元将軍」が当社に安置されるに至った経緯についてお話したいと存じます。(細)


水屋神社御祭神のお話 第一回 乙加豆知命(オトカズチノミコト)様

 幾柱も御鎮座されている当社の御祭神ですが、今回は乙加豆知命様についてお話したいと存じます。今から七百年ほど前に成立し、この伊勢国に天照大御神様が御鎮座された経緯を著した書物である『倭姫命世記(ヤマトヒメノミコトセイキ)』には、この乙加豆知命様が次のように表われて来ます。
 『(天照大御神様をお守りする倭姫命が)飯野の高宮に遷り、四年間奉斎。この時、飯高県造(イイダカノアガタヌシ)の祖の乙加豆知命に「あなたの国はなんと言う名前ですか」と問ふと、「いすひ(意味不明) 飯高国です」と申上げて、神田・神戸を奉った。倭姫命は「飯が高い(米がよく取れる)というのは非常によい名前です」と悦ばれた。』
 この飯高県造というのは今の飯南郡と松阪市、それから明和町一帯をさす地域を古代に治めていた領主のことで、この飯高県造の末裔は明治期に至るまで滝野神社宮司を勤められた滝野氏(滝本三郎氏の先祖)であると言われています。この乙加豆知命様が飯野の高宮で倭姫命様らに出会い、神田・神戸(土地と人)を奉ったお話は度々御紹介している『拾傳集』にも記載されてます。このようなわけで乙加豆知命様は滝野氏の氏神を奉祭する滝野神社に祭神として永らく祭られていたわけですが、明治期の合祀により、滝野神社からこの水屋神社に祭神として祀られることとなったのです。
 この乙加豆知命様は『日本書紀』や『古事記』の神話には全く出てこない神様ですので、地域の集団毎に氏神として代々祭られていた神様ということができます(このような神様を普通「国つ神」といいます)。
 現在当社で確認している、この神様をお祭りしている神社は当社と松阪港近くの加世智(カセチ)神社の二社のみですが、この場所はかつての飯高氏領国の東西の両端でありまして、大変興味深いものです。この神様も龍神姫命様らと同様、この飯高町の歴史を雄弁に物語る神様であるといえましょう。(細)


水屋神社 新春歌始め

 しじまなる夜道を照らし宮司らが
 祈りつつ汲む閼伽桶の水

 みやしろに鎮もりて建つ平和の碑

 宵宮に敬神婦人のおどりの輪

以上三歌 中瀬静代


今月五日、当社権禰宜を務めます常山君の父君が亡くなられました。葬儀に当たりましては神社より花を賜り本人に代わり厚く御礼を申し上げます。尚、本人は忌引きによりまして五十日間出社を遠慮いたします。